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漬物の歴史

漬物の系譜と変遷

漬物の歴史は他の食品と同様に、形として残らないので、古文書により推定するしか方法がありません。 しかし、中国における3世紀以降の記録、わが国の8世紀以降の記録を調べ、更に現在の世界各地に存在する漬物を見るとき、その系譜はかなり判然となってきます。そして漬物は中国の古文書記載の物が、わずかに手を加えられただけで、現在の漬物として存在していることに驚かされます。更に、日本における変遷を見るとき、漬物自体は古文書からの変化は少なく、むしろ漬物工業の発展した昭和中期以降に、大きな転換があった事がわかります。

中国6世紀までの漬物の歴史

注 コンピュータの辞書にない文字は当て字でアンダーラインで示してあります。

BC3世紀の中国最古の辞書『爾雅』、2世紀の2番目の辞書である許愼の『説文解字』及び3世紀中頃の辞書である劉煕の『釈名』、また紀元前3世紀の周代の礼法書の三礼の一つ『儀礼』などの中国古文書には、いずれも塩蔵品を示す言葉が見られ、漬物の存在を裏付けています。しかし、いずれも製造法の記載はなく、それが明らかになるのは6世紀中ごろに出た賈思朱〈チャー・スー・シュ〉の『斉民要術』以降です。 『斉民要術』には、漬物を専門に解説した『漬・蔵生菜の法』という項目があって、菘〈ウキナ、小松菜の事〉蕪青〈カブ〉、蜀芥〈タカナ〉の鹹漬〈シオズケ〉法、湯漬〈イタメズケ〉法、醸漬〈マルヅケ〉法、菘根蘿蔔漬〈ダイコンスズケ〉法、瓜芥漬〈ウリカラシズケ〉法など、30余種の製造法を見る事が出来ます。また蔬菜の項目で瓜類、蓼葉の中には醤蔵が、梅・杏の中に梅干が、そして『八和ノ韲』〈ヤカテノツキアエ〉の項でニンニク、生姜、陳皮、梅干、栗、飯、塩、酢の8種を臼でついて和え物を作り、この中に魚、肉などを入れた、日本の梅肉とカツオブシを練り合せた『ねり梅』を思わせる物が出ています。『斉民要術』で興味深いのは、酢漬を『発酵漬物』と『調味漬物』の2つに判然と分けている点です。古さからゆくと、烏梅汁〈梅酢〉に瓜、茗荷を漬ける調味漬物、次に野菜に発酵源として穀物を加えて塩漬し、乳酸を生成させた庵酢菜の漬、すなわち発酵漬物が出ています。またこの庵酢菜が醸造酢発見以前の酸味料として、料理に使われていました。

日本10世紀までの漬物の歴史

最初のものは、8世紀の天平年間に、平城宮から発掘された木簡に書かれた須々保利、楡木〈ニラギ〉、滓漬の文字です。さらに天平11年〈739〉の写経司解にある『菁一圍別塩三合』『瓜一百果別塩二升』の文章、更にこの天平から神護景雲を経て、宝亀〈780頃〉にいたる奈良時代には、この他、食物雑物納帳、食料下充帳などにも多くの漬物が見られます。当時の漬物は食塩がなければ出来ません。塩が『藻塩焼く』から長門あたりで作られた煎塩鉄釜に変わろうとする時代で、まだ貴重品で高価らしく『漬瓜一果』『漬菜二合』などの単位で、僧侶以下舎人以上とか、経師以下雑仕以上に支給したと書いてあります。  奈良時代の多くの漬物を、総合的な製造法として示したのが、醍醐天皇の延喜5年に編集が始まり、25年目の延長8年〈930〉に進献された『延喜式』です。 『延喜式』には塩漬、醤漬、糟漬、楡木〈ニラギ〉、須々保利、搗〈ツキ〉、荏裹〈エツヅミ〉の7種類が記載されています。

塩漬

塩漬は蕨〈ワラビ〉、薊〈アザミ〉,虎杖〈イタドリ〉、芹、瓜、茄子、山蘭〈ヤマアララギ、香辛料にするコブシの実〉、生薑〈クレノハジカミ・ショウガ〉、茗荷〈ミョウガ〉、水葱〈コナギ・ミズアオイ〉が漬けられ野菜一石あたり、塩4合から6升という幅広い範囲で使われています。

醤漬

醤漬は醤、未醤、滓醤のような『ヒシオ』、すなわち現在のたまり、あるいは味噌類似のものに野菜・山菜を漬けたものです。瓜、茄子、冬瓜が出ていて瓜9斗に塩、醤、滓醤各1斗9升8合の配合と記載されています。この醤漬は、タイ・アユ・アワビなどの水産物の漬け込みが初期の頃行われ、野菜はかなり遅れ、現在の味噌漬の主力である大根は、平安朝中期以降で後冷泉天皇(1045)の頃の藤原明衡日記に『香疾大根〈カバヤキ〉』というのが見られるまで出てきません。

糟漬

糟漬は汁糟に瓜、冬瓜、茄子、生薑等を漬けています。瓜9斗に塩1斗9升8合、汁糟1斗9升8合、滓醤2斗7升、醤2斗7升を使うとあります。醤と糟の差異はあまり判然としませんが、汁糟は麹汁のしぼり糟と思われ、醤は蛋白分解の味、糟は澱粉糖化の味を想像されます。糟は酒粕との考えもあり、酒粕については万葉集で、山上憶良が詠っていますが、当事の酒は支那甘酒の系統で、現在の酒粕の出現はかなり後の事です。

楡木〈ニラギ〉

楡木〈ニラギ〉というのは中国の釈名、正倉院の雑物納帳にも文字としてみられ、当時『爻阻・草阻』の字を分解して、草もしくは爻すなわち、肉を阻した、腐らないようにした意味で、それぞれの漬物を表していました。しかし『延喜式』の楡木は、ニラギと読まれ、独特の漬物を指しています。この楡木は現存しない漬物で、漬け方は楡の木の皮の粉づくり、ついで漬け込みの二工程に分かれます。楡の木の皮をはいで、長さ1尺5寸、幅4寸くらいの大きさにして軒につるして乾燥し、臼に入れて杵で砕いて粗粉とし、更に臼で細粉にします。この寸法の楡の木の皮1000枚で細粉2石が取れたといいます。漬け込みは菘楡木〈コマツナニレギ〉の例で、菘3石に塩2斗4升、楡粉7斗5升の割合で漬けています。コマツナの他に蓼、カブなど主として野菜を漬けていますが、楡の皮自体を食べたり蟹や鯛を漬ける事もあったようです。蟹の記録は、万葉集巻16の99に長歌があって、葦蟹と楡の皮で塩辛を作って賞味したことが粉の製法から始まって長々と詠み込んであります。楡の皮がいかなる理由で使われたか、香辛料的役割があったか不明で、実験をやった川上という研究者の報告では、楡の皮は、香気はないとあります。ただ、これが中国からきた事は確かで、『斉民要術』で楡は漬物に使っていませんが、楡子醤、楡醸酒があって、それを裏付けています。楡が今の楡の木だったのかという疑問もわきますが、香気のない粉を使って漬物を作るところは、現在のたくあんの漬床に、白フスマや、トウモロコシの皮をつかっているのとよく似ています。

須々保利

須々保利も現存していない漬物です、穀物や大豆を臼で引いた粉と食塩で床を作り、カブ、葉菜類を漬けたもので『斉民要術』に、酢漬〈ヌカヅケ〉というぬかを使った漬物がありますので、それに似てぬか味噌の前身のような漬物と想像できます。カブ1石に塩6升、米5升とあります。粟の粉を使った須々保利もあって、黄菜と呼ばれています。カブ5斗に塩3升、粟5升で漬け込むと黄色い須々保利になります。須々保利の名称は不明ですが、古事記の応神天皇に酒を献上した朝鮮半島の人の名が須々計理〈スズコリ〉と出ていますので、この辺に起源があるかもしれません。 須々保利は天平の木簡にも見られ『延喜式』をさかのぼる事200年前にすでに知られてはいたのです。

搗〈ツキ〉

搗〈ツキ〉も楡木、須々保利同様に現在、見られない漬物です。ただ万葉集にも出てきますし、中国『斉民要術』にも細切楡木であるキザミ、それの発達した梅のヌタである搗韲〈ツキアエ〉そして完成された形の八和の韲等がでていますので、当時は重要な食品であったと思われます。蒜搗、韮搗、菁根搗、多々羅比売花搗等があります。 多々羅比売花搗は花のペースト、その他は野菜をすりつぶし、よく搗いてカメに漬け込んだ野菜の塩辛のようなものだったでしょう。現在の漬物で見ると『ねり梅』がこの搗に近いと思われます。

荏裹〈エツヅミ〉

荏裹〈エツヅミ〉は荏の葉に瓜などを包んで醤油漬にしたもので荏は平安朝中頃の油脂原料として多用されていたので、食べられていたと思われます。 現在、日光にある日光巻きは、荏の葉に長い唐辛子を包んで、醤油漬にしたもので製法からみて延喜式漬物『荏裹』の流れをくむ唯一の漬物として重要です。表2

斉民要術

延喜式

現在

鹹漬 塩漬 塩漬
越瓜・胡瓜醤漬 醤漬 醤油漬・味噌漬
瓜漬酒 糟漬 奈良漬
楡子醤・楡醸酒 楡木〈ニレギ〉 ぬか味噌漬
酢漬〈ヌカズケ〉 須々保利 たくあん
八和の韲 ねり梅
蓼漬 荏裹 日光巻き
蔵梅瓜 酢漬
白梅〈梅干〉 梅干

漬物工業の時代を迎えるまで

延喜式以降の漬物では、粟と食塩を使って大根を漬けた須々保利から、玄米を精米するようになって生じた米ぬかを、粟の変わりに使う『たくあん』が誕生したと思われます。品川東海寺の沢庵和尚の墓は、重石の形をしており将軍家光が東海寺を訪ね大根漬を食べて、今後これを沢庵と名付けよと言ったという話もあって、この和尚は沢庵の普及に功績があったと考えられています。  江戸期は『漬物塩嘉言』なる本が出て、漬け方が種々と書かれていますが、特記すべきは生鮮野菜に塩をまいて作る漬物の他『野菜を出盛期に強い塩で塩蔵し、食べるときに脱塩する漬物=古漬』がはっきり出ていることです。正倉院文書の漬物も相当に高塩ですが、塩抜き・脱塩の記録がなく、古漬技法は江戸末期に完成したと思われます。 これが明治に上野池の端の、香煎屋酒悦の福神漬につながってゆきます。塩蔵野菜を脱塩する漬物はヨーロッパ・中国・朝鮮半島にもほとんどなく日本固有のものといえます。 漬物の市販品は江戸期に始まりますが、第二次世界大戦末まで梅干、たくあん、べったら漬、福神漬、古高菜漬ぐらいで、まだ食品工業の形になっていませんでした。戦争が終わり、日本の家庭環境、家族構成が変わり、親が漬物の漬け方を子に教える事がなくなり、市販漬物が興隆してきます。そしてプラスチック包装、加熱殺菌、低温利用や調味料の発達、流通経路の確立で低塩美味の漬物が完成し、漬物工業は完成します。 戦後、いくたの新製品が開発され、発酵漬物が減少してゆきますが、従来の高塩塩蔵、脱塩の工程を踏まない低塩低温塩蔵で脱塩を回避し、野菜の風味豊かな塩蔵浅漬の端緒を作った『新生姜』の開発は、漬物分類に新しい一頁を開くものとして忘れてはならない事と思われます。